明日のたりないふたり

12年前と同じ下北沢タウンホールの舞台に現れたふたりは、ものすごく生き生きした表情で、ものすごく楽しそうに漫才をしていた。

 

いろいろあったこの12年、特にこの1〜2年は様々な変化が起こったが、それらを経てこの舞台で漫才ができる喜びというものをひしひしと感じた。

 

しかし中盤に差し掛かると、だんだん、あぁ、本当に終わってしまうんだな...という思いがふつふつと湧き上がるようになった。

 

以前も「さよなら たりないふたり」というタイトルのライブを行ったが、今回の漫才は明らかにその時のものとは違った。ふたりともここで全てを出し尽くそうとしているのがよく伝わった。

 

 

 

終盤の山里さんの魂の叫びから私の涙腺は完全に崩壊した。

自分語りが多いとも言われたが、あの叫びを聞いて、自分のことを話させたら山里さんの右に出る者はいないと感じた。

 

若林さんがカレーライスで山里さんは福神漬という例えもあったが、私はたりないふたりは山里さんの人生そのものであり、山里さんがカレーライスであると感じる。

特に前回の「さよなら たりないふたり」以降は変わろうとするもののなかなか変われない山里さんの葛藤と、それに寄り添う若林さんの姿がよく現れていた。

 

しかし、今回の漫才ではっきりと結論が出た。

 

人間そう簡単に変われるものではないのだ。

そして、無理に変わる必要はないのである。

時代や環境が移り変わり、お前もアップデートするべきだと揶揄されたとしても、それがなんだと我が道を進んでいくのがたりない者の生き方なのだ。

きっとこれからも彼は自虐の竹槍を振り回していくだろう。

それが人間山里亮太の姿なのである。

 

 

 

ふたりの漫才が終わったあと、客席にいたのは誰よりも彼らに感銘を受け、彼らの背中を追い続けた大阪のラッパーと新潟のDJであった。無観客で行われた最後のライブを一番近くで見届けたのが彼らで本当によかったと感じた。

 

ライブや映画を見て感動することは多々あってもせいぜい目に涙が溜まる程度のことがほとんどであるが、今回は一度涙が出始めたら留まることを知らず次から次に涙が溢れ出してきた。ここまで号泣することは人生でも数えるほどしかない。

 

この漫才は最初から最後までふたりの人生そのものであり、どんなに優秀な脚本家でも書くことができず、どんなに優秀な演出家でも演出できない、ふたりだけの漫才であった。だからこそここまで心を動かされたのだと思う。

 

きっとこのライブを見た全国のたりない者が共感と感銘を受けたことだろう。人それぞれ立場は違えど、ふたりが抱えているたりないものはみんなが抱えているものである。

 

しかし、それをこのような形で芸として昇華した人はこれまでにいないであろう。

そしてそんな人はこれからもきっと現れないと思う。

どれだけたりないものがたくさんあってもこの特殊能力を持っているのはこのふたりだけだ。

 

 

 

...とここまで書いたものの、所詮この文章もただの私の自分語りであるのだと感じた。

 

たりないふたりを見て感銘を受けている自分に酔った姿をひけらかしているだけなのである。

 

そういえばこの前も友人に自分語りが多すぎると指摘された。そしてこのことをここに書いている時点でこれもまた自分語りなのである。

勝手に重ねるのはおこがましいかもしれないが、私もたりない側の人間だと感じている。

 

しかし、だからこそこのふたりの生き様に感動するのだろう。

そして自分がたりてる側の人間だったらきっとこのふたりに出会うことはなかっただろう。

自分がたりないおかげでこんなに素敵な出会いがあったと思うと、たりてなくてありがとうと自分自身に感謝を言いたくなった。

 

 

 

2時間にも及ぶ漫才のオチは、たりないふたりの漫才に大笑いし、そして号泣した画面の前の我々こそが “明日のたりないふたり” であるというなんとも爽快なものであった。

 

しかし、彼らは今後もたりてる側に行くことはないだろう。

明日もきっと自分のたりない部分に悩み、たりない話で笑いを取るのである。

 

 

 

ありがとう、たりないふたり